ため池資料館

Facebook Facebook

淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどる いなみ野台地を潤す”水の路”

元々、母里村(もりむら/現在の稲美町母里地区)は土地が高く、乾燥しており、田畑を潤す水が不足していました。
稲田はわずかで、大部分の畑地での綿作が主な産業であり、概ね耕作不能の状態でした。元治・慶応より明治初年頃(1864~1868年)にわたって、ひどい日照りが続き、田畑もからからの状態に陥りました。
歳月が移りゆくとともに、土地は次第に荒れ果て、加えて綿産業が外国綿糸の輸入に圧迫され、綿の売れ口もぱたりと途絶えました。
村中の活気が無くなるなか、地租の改正が行われました。土地の実情に合わない重い税が割り当てられ、村民の暮らしは言葉で言い表せないほど悲惨な状況になりました。その結果、貧しい人は村を捨て、西や東へとさすらい、村は廃れ、荒れ果てて、苦しい境遇に沈み込みました。これは、この村の三代難であったといえます。元々、母里村(もりむら/現在の稲美町母里地区)は土地が高く、乾燥しており、田畑を潤す水が不足していました。
稲田はわずかで、大部分の畑地での綿作が主な産業であり、概ね耕作不能の状態でした。元治・慶応より明治初年頃(1864~1868年)にわたって、ひどい日照りが続き、田畑もからからの状態に陥りました。
歳月が移りゆくとともに、土地は次第に荒れ果て、加えて綿産業が外国綿糸の輸入に圧迫され、綿の売れ口もぱたりと途絶えました。
村中の活気が無くなるなか、地租の改正が行われました。土地の実情に合わない重い税が割り当てられ、村民の暮らしは言葉で言い表せないほど悲惨な状況になりました。その結果、貧しい人は村を捨て、西や東へとさすらい、村は廃れ、荒れ果てて、苦しい境遇に沈み込みました。これは、この村の三代難であったといえます。

母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく/著:北条直正)・緒言冒頭部分を意訳

『母里村難恢復史略』の由来等

加古郡母里村は、稲美町東部の開拓新村の野寺・蛸草・印南・野谷・下草谷の6ヵ村が1889年(明治22)に合併した村です。『母里村難恢復史略』は、明治期に加古郡長や母里村長を歴任した北条正直が、当時の村の様子などをまとめたものです。『母里村難恢復史略』は「母里村の災難の回復の歴史」といった意味です。現在残っている『母里村難恢復史略』は、少なくとも下表の3種類があります。

仮称 作成年代 作成者 備考 現存
北条原本 大正3年(1914)頃 北条直正 北条直筆の原本 しない
魚住写本 大正4年(1915)頃 魚住正継 原本を筆写製本したもの する
ガリ刷り版 昭和30年(1955)3月30日 母里村役場 筆写製本を謄写版印刷製本 する

上表にもあるとおり、北条正直直筆の原本は見つかっていません。北条家のご子孫にもそうした書物は伝世していないといいます。現存する『母里村難恢復史略』では、魚住写本とガリ刷り版の2種類あります。魚住家写本は、北条直正と親交のあった魚住家当主が筆耕者に依頼して大正4年頃に筆写製本されたものと伝わっています。もう一方のガリ刷り版は、魚住写本を元に母里村役場が昭和30年に刊行したものです。

淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどる いなみ野台地を潤す"水の路"

はじめに

  1. “いなみ野”台地の概要
    1. “いなみ野”台地の位置
    2. 自然的条件
  2. “いなみ野”台地の開発の歴史
    1. 灌漑技術の発展と新田開発
    2. 生産状況
    3. 水争い
  3. 淡河川・山田川疏水プロジェクト
    1. 淡河川・山田川疏水の概要
    2. 疏水開発の要因
    3. 構想から着工までの歴史
    4. 着工から完成までの歴史
  4. 疏水を実現させた取り組み
    1. 疏水の実現に尽くした先人たち
    2. 事業を支えた組織
    3. 工費の負担
  5. 近代技術
    1. 測量技術の進展
    2. 疏水の計画
    3. 構造物
    4. 水利調整
  6. 淡河川・山田川疏水の評価
    1. 主な疏水との比較
    2. 生産性の向上
    3. 地価上昇
  7. 現代に生きる疏水
    1. 完成以降の歴史
    2. 現在的意義
    3. 歴史・文化的価値

おわりに

資料

ページの先頭へ