ため池とは

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記録に残る水争い

ため池や用水路など、水を得るための開発や新田開発がひととおり終わった1700年頃を境に、藩による年貢の増大や販売作物の増加などで水利用が増えてきたことから、水利用を巡る地域の争い〈水争い〉が盛んになりました。

その1

元禄年間(1688~1704年)のこと。明石藩に属する神出村で新しい池と用水路を設けた。これに対し、神出からの水に頼っていた隣の草谷、野寺、野谷新の3村が、異議をとなえた。この3村は姫路藩に属しており、明石藩と姫路藩との争いになった。ついに幕府の京都奉行の裁決によって、神出村の新しい池と用水路は潰廃(つぶされてなくなる)されてしまった。

その1

宝永2年(1705年)、天満地区の東南端にあたる相之山の柿ノ木沢(現在の柿沢池?)に新しい池を築造しようとしたときのこと。この新しい池の水を利用しようとしていた六分一、森山の2村と、下流でこの沢の水を利用していた二子、福里の2村との対立となった。後者の2村は忍藩領であったため、姫路藩との訴訟事件となった。この事件はくじ引きで裁決したらしく、新しい池は「くじ池」ともいったという。

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